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水音の向こうで待っていた

一夜限りの錯覚
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第1章 静かな水面に映る日常

冷めたコーヒーを口に含んだまま、佐知子はゆっくりとカップを置いた。

テーブルの上には、読みかけの小説と、夫からの短いLINEだけが残されている。

――「今週も帰れそうにない、ごめん」

それが、何度目の「ごめん」だったのかも思い出せない。

佐知子は三十八歳。

夫の単身赴任が始まって、もうすぐ一年になる。

最初の数ヶ月は、自分の時間が持てることを前向きにとらえていた。

家事に追われず、好きな本を読み、音楽を流しながらゆっくりと湯船に浸かる。

誰にも邪魔されない夜の静けさは、佐知子にとって“解放”でもあった。

けれど、その静けさはやがて、音のない孤独に変わっていった。

会話のない食卓。

誰にも触れられないまま眠る夜。

化粧をする理由も、香水をつける意味も、ひとつずつ剥がれ落ちていく。

「……行こうかな」

自分に言い聞かせるように呟き、佐知子はゆっくりと立ち上がった。

薄手のシャツにパーカーを羽織り、バッグに水着とキャップ、ゴーグルを詰める。

週に二度だけ通っている市民スポーツクラブ。

かつて学生時代に打ち込んだ水泳を、もう一度始めてみたのは、ほんの気まぐれだった。

けれど今では、その時間だけが、自分が“素肌”になれる場所だった。

プールに足を入れた瞬間の、ひやりとした感触。

腕を伸ばし、水を切るあの動き。

それだけで、自分の身体がまだ確かにここにあると、そう実感できた。

市民スポーツクラブには顔見知りの会員も何人かいたが、深く関わることはなかった。

ただひとり、あの人を除いては――

駿。

いつもプールサイドで静かに立ち、泳ぎの様子を見守っている若い指導員。

年齢は、十以上も離れているだろう。

言葉を交わす機会は少ないが、佐知子が泳ぎ終える頃、いつもタイミングを見計らったように声をかけてくる。

「肩、もう少しリラックスしてみましょうか」

「水の流れに任せて、力を抜いて」

その言葉のひとつひとつが、まるで身体だけでなく、心にまで届いてくるようだった。

――でも、今日も何も起こらない。

そう思いながら、佐知子は市民スポーツクラブの入り口をくぐった。

夜のプールは、静かだった。

蒸し暑い外気とは対照的に、湿度を含んだひんやりとした空気が肌を撫でていく。

ロッカールームで水着に着替え、キャップをかぶると、佐知子は深呼吸をひとつしてプールへ向かった。

浮かび上がる水音。

天井の明かりが水面に揺れ、時間の輪郭がぼやけていく。

泳ぎながら、ふと感じた視線。

その先には、いつもの場所に立つ彼の姿があった。

ほんの一瞬だけ、目が合った。

その瞬間、佐知子の中にあった「何も起きないはず」という確信が、ゆっくりと、崩れ始めていた。

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