第一章 恋を求めて、噂の宿へ
冬の終わり。
雪は解けかけているのに、まだ風は鋭く冷たい。
私は薄手のタートルニットにロングのウールコートを羽織り、黒のスキニーパンツにショートブーツを合わせていた。
春色のストールだけが、かすかに次の季節を先取りしているように見えた。
――あれ以来、うまくいかない。
紅葉の旅で、EDの男性と結ばれた夜を境に、その後も三度、四度と旅に出てみた。
雪の残る温泉街にも行ったし、海辺の小さな宿にも泊まった。
けれど、どの夜も心まで熱くなることはなく、恋の気配は指の間から零れ落ちるように消えていった。
自分から誘うような仕草をしても、相手は笑って話をそらすばかり。
気づけば、胸の奥に小さな空洞が広がっていた。
「そういうのもアリな宿があるらしいよ」
先月の飲み会で耳にした噂が、妙に頭から離れなかった。
半分は冗談だと思いながらも、残りの半分は試してみたい気持ち。
結局、数日後にはスマホを握りしめ、その宿を予約していた。
そして今日。
長いバス移動を終えて降り立った山あいの集落は、人影もまばらで静まり返っていた。
軒先から白い湯気が立ちのぼり、硫黄の匂いが鼻をくすぐる。
その奥に、ようやく目的の宿が見えた。古びた木造の二階建てで、母屋と離れが細い渡り廊下でつながっている。
母屋は普通の旅館としても営業しているけれど、離れには“特別な”部屋があるらしい。
男女とも独身であることが条件で、希望すれば従業員がさりげなく確認を取ってくれるという話を、私は事前に調べて知っていた。
離れの部屋の前には小さな札を掲げる場所があり、それが「今夜は歓迎」という合図になる。
さらに、訪問の直前には枕元のランプが点き、それを見た私が小さなボタンを押すと了承のサインになる。
ランプが消えれば従業員が訪問者を部屋まで案内してくれる——そんな仕組みだと理解していた。
知ってはいたものの、本当にそんな仕組みがあるのか、今でもどこか半信半疑だった。
けれど、だからこそ胸の奥がひそかにざわめいていた。
チェックインの手続きを終えると、年配の女将がふと声を落とした。
「…ここはね、昔から“お客様同士が仲良くなる”場所なんです。そういうことは、ご存じで?」
もちろん、公式にはそんなサービスは書かれていない。
私は小さく笑って、「ええ、知ってます」と答えた。
女将の口元がわずかに緩む。
「では、ご滞在をお楽しみください」
そう言って、鍵と一緒に小さな木札と丸いボタンを手渡された。
受け取る瞬間、私は声を潜めて付け加える。
「…あまり年上すぎない方が、いいです」
女将は一瞬だけ私の目を見て、ふっと笑みを深めた。
「承知しました」
手の中の木札とボタンが、今夜、この宿での合図になるのだと、そのとき私は理解した。



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