第一章 昼──市場での偶然の出会い
① 観光で訪れた港町
朝の列車を降りた瞬間、空気の匂いが変わった。真新しいわけではない。少し湿り気を帯びた潮の匂い。
金属のように冷たく、それでいて真夏の陽射しに温められることで、ほんのり甘くやわらかくなっている。
鼻先に入り込んだその香りが胸の奥まで届き、”ああ、旅に来たんだ”という実感がゆっくりと広がっていった。
今日は白地に小花模様のワンピースを選んだ。生地は軽くて風通しがよく、歩くたびに裾がふわりと揺れる。
冷房の効きすぎた車内や店内で羽織れるよう、麻混の薄手カーディガンを肩に掛けてきた。
足元は、石畳でも歩きやすいサンダル。ショルダーバッグには日焼け止めとカメラ、そして小さな水のボトルを入れている。
駅からまっすぐ伸びる坂道を下っていくと、両脇には古い木造家屋が肩を寄せ合うように並び、軒先には色あせた暖簾や網、浮き玉が揺れていた。
開け放たれた窓からは、煮物の匂いや、朝食の魚を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
潮風がそれらを混ぜ合わせ、私の頬を撫でて通り過ぎていった。
夜のうちに降った潮を含んだ風のせいか、足元の石畳は少し湿っていて、歩くたびにサンダルの底がかすかに鳴る。
いくつかの曲がり角を抜けた瞬間、視界がぱっと開けた。
低い屋根の向こうに、きらきらと水面が光っている。
船のスクリューが低く回転する音、錆びた鎖が岸壁で擦れる音、氷を砕く鈍い音、そして威勢のいい掛け声。
それらが混じり合い、この町独特のリズムを作っていた。
港町はどこも似ているようで、必ずどこかが違う。
その違いを見つけるのが、私の旅の密かな楽しみだ。
市場に入ると、昼前の熱気に包まれていた。
屋号の染め抜かれた暖簾が潮風に揺れ、発泡スチロールの箱には銀色に輝く魚がぎっしりと並んでいる。
包丁が骨に当たる乾いた音が一定のリズムを刻み、その合間を縫うように醤油の香りが漂ってきた。
揚げたてのかまぼこから立ち上る白い湯気。
観光客の弾む声と地元の人々の太く落ち着いた声、値段交渉の掛け合い──それらが混ざり合い、港町らしい活気を作り出している。
私は首からカメラを下げ、視線を右へ左へと泳がせながら露店の隙間を縫うように歩いた。
ふと立ち止まり、シャッターを切る。
液晶には景色が確かに収まっているけれど、肌で感じた湿り気や魚と醤油の混ざった匂い、潮風の冷たさまでは写らない。
近くの店で買ったペットボトルの水は、手に取ったときには冷たかったが、歩きながら飲もうとキャップを開けたときにはもうぬるく、喉を通るときにほんの少し塩気を感じた。
潮風は、肌だけでなく味覚にまで染み込むらしい。
「観光さんかい?」
年季の入ったエプロン姿の女将が、にこやかに声をかけてきた。
「ええ、少し散歩を」
そう答えると、女将はおすすめの干物や、今朝水揚げされたばかりという刺身の話を楽しそうにしてくれる。
話を聞きながら勧められるままに手に取っているうち、気づけば両手にいくつもの袋がぶら下がっていた。
旅先では財布の紐が緩み、計算はいつも後回しになる。
しばらく歩いて立ち止まる。腕の中の荷物は想像以上に重かった。
(もう一軒だけ……)
そう思って顔を上げたその瞬間、肩越しに静かな影が差した。
その気配に振り向くと、潮風よりも少し熱を帯びた空気が、胸の奥をふっと揺らした。



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