第一章 到着──夏の町と小さな準備
改札を抜けた瞬間、湿り気を帯びた夏の風が頬を撫でた。
高い空から陽射しが降り、駅前の石畳がゆっくりと熱を返してくる。
足を止め、スマホを取り出す。
レンズ越しに、真っ白な駅舎の壁が夏の光を強く跳ね返しているのを確認し、二度シャッターを切った。
その響きでようやく、”旅が始まった”ことを実感した。
人影の少ない平日。
バスの待合所の屋根下では、地元の老人が帽子を膝に置いてうたた寝をしている。
風がページをめくるように前髪を揺らし、細い髪が陽に透けて柔らかな銀色になっていた。
その光景も、静かに一枚収めた。
宿は駅から徒歩数分。
観光地らしい木造の外観で、玄関先には色褪せた暖簾が揺れている。
部屋へ荷物を運び入れ、大きなキャリーは押し入れへ。
残したのは、温泉へ持っていくための最小限の荷物だけ。
トートバッグにバスタオルとハンドタオル、巾着には財布とスマホを入れた。
肩にトートバッグを掛け直し、中の巾着の紐を軽く締める。
あとは谷の奥へ向かうだけ。
部屋を出るとき、浴衣姿の宿の人が「足もと、気をつけて」と笑ってくれた。
扉を閉めると、外の熱気がすぐに腕にまとわりつく。
私はトートの持ち手を握り直し、駅前通りを抜けて広場へ出た。
広場の端に、観光案内所の白い引き戸がある。
中に入るとひんやりとしていて、棚に並んだパンフレットや地図から、紙の乾いた香りと新しい印刷の匂いがふわりと漂ってきた。
カウンターに近づき、軽く会釈をして口を開く。
「このあたりで、静かな温泉があると聞いたんですが?」
年配の女性職員は少しだけ首を傾げ、言葉を選ぶように間を置いた。
「有名ってほどじゃないけど…好きな人は好きな場所ね」
そう言って、机の上の地図に細いペンで小さな丸を描いた。
「標識もないし、足場もあまり良くないから……まあ、いろいろあってね」
彼女は視線を上げ、わずかに声を低くする。
「そこで何があっても、自己責任よ」
その言葉が耳に残ったとき、ふと気配を感じて横目をやる。
奥のベンチに腰掛けていたラフな格好の男性が、こちらに興味深そうな視線を向けていた。
「まあまあ、せっかく来たんだ。行き方くらいはちゃんと教えてやらないと」
そう言って男性は大判の地図を手に取り、鉛筆で橋と川沿いの小径、途中の曲がり角をなぞった。
その手の動きには、長年その道を歩いてきた人間の確かさがあった。
「昼間に行くのがいいですよ。あそこは夜になると真っ暗になりますから」
私は地図を受け取り、軽く会釈して外へ出た。
強い日差しと川風が入り混じる空気が、肌にまとわりつく。
川沿いの道に出ると、浅瀬をかすめるように葦や野花が揺れていた。
水面では陽が跳ね、きらきらと小さな白い斑点を作っている。
石畳はやがて土の道に変わり、川のせせらぎが近くなる。
標識はないが、地図の線をなぞるように歩くと、正面に木陰の濃い細道が現れた。
そこが谷への入口だ。
細道へ入る手前、川沿いに小さな売店が一軒だけあった。
日よけ布の下、氷水に沈んだ地酒の一合瓶が、昼の光を鈍く反射している。
紙のラベルは水を吸って柔らかくなり、小さな札には”お一人様一瓶まで”と墨の筆跡が滲んでいた。
通り過ぎかけた足が、ふと止まる。
――温泉でお酒を飲むのも、悪くないかもしれない。
そう思った瞬間、瓶の冷たさまで想像できて、自然と手が伸びていた。
一本を手に取ると、奥から女将さんが現れた。
「谷へ?」とだけ尋ねられ、私が頷くと、彼女は「足もと、苔ね。呑むも断るも、自分の間合いと温度で」と淡々と続けた。
その短い言葉は、不思議と胸の奥に静かに残った。
会計のとき、女将さんが棚から小さな紙箱を取り出す。
ふたを開けると、白地に青い波紋が描かれたお猪口がひとつ、静かに収まっていた。
「これ、持っていく?」
笑みとともに差し出され、私は迷わず頷いた。
薄手の手ぬぐいも選び、瓶だけを包んでトートバッグの底に入れる。
お猪口は箱のまま、その横にそっと収めた。
肩で位置を掛け直すと、歩くたびに布越しのひんやりが小さく揺れ、冷たさの記憶が肌をなぞる。
(一合しか置かないのは、この秘湯で酔い過ぎないためかもしれない)――そう軽く思うだけで、深くは考えなかった。
川風をひと口吸い、橋の欄干を手のひらでなぞる。
板の先に続く薄暗がりへ、私は静かに足を運んだ。



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