第一章 小料理屋での偶然の出会い
「え、もう帰るの?今日は全員定時上がりだし、せっかくの金曜なのに」
パソコンをシャットダウンした瞬間、向かいの席の同僚が笑顔で声をかけてきた。
「これからみんなで飲みに行こうって話してたんだけど、紗季さんもどう?」
「ありがとうございます。でも、今日はこのあと列車で温泉町まで行くんです。土日はそこでゆっくりしようと思って」
「へぇ、いいなぁ。じゃあ、もう旅は始まってるわけだ」
「そうですね。家に帰ってからよりも、先に移動しておいた方が、夜ものんびりできますから」
軽く手を振ってオフィスを後にし、まだ明るさの残る街を駅へと急いだ。
夜の列車に揺られながら、目的地の一歩手前にある小さな温泉町を目指す。
車窓の外は次第にビルの灯りから山あいの暗闇へと変わり、終着駅に着いたのは夜八時を少し回った頃だった。
宿にチェックインすると、フロントの女性が「この時間ですと、夕食は外になります」と地図を差し出してくれた。
「開いているのは、この小料理屋くらいです。地元の方にも人気ですよ」
案内された通りを歩くと、ほとんどの店が暖簾を下ろしている中、角にある小さな店だけが温かな光を漏らしていた。
暖簾をくぐると、女将さんが「あと三十分ほどで閉めますが、大丈夫ですか?」と柔らかく微笑んでくれる。
「はい、軽く食事だけいただければ」
カウンターの端に腰を下ろすと、反対側には浴衣姿の男性二人組が座っていた。
地酒を片手に、地元の料理を楽しんでいる様子だ。
「これ、美味しいですよ。まだ手をつけてないので、よければ」
ひとりが小皿を差し出してくれる。
「ありがとうございます。いただきます」
ひと口食べると、川魚の旨みと出汁の香りが広がった。
「本当は地酒を飲みたいんですけど、閉店まじかですし。次に来たときのお楽しみにします」
そう笑うと、「それは残念」と返され、旅や食べ物の話で短い時間ながら和やかに盛り上がった。
やがて二人は会計を済ませ、「じゃあ、お先に。楽しんで」と手を振って出て行った。
静かになったカウンターに、注文した料理と冷えたビールが運ばれてくる。
ひと口目の泡が喉を滑り落ちていく感覚が、今日の疲れをやわらげてくれた。



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