第一章 昼──偶然の案内人
軽く手を振ったあと、角を曲がり、石畳の通りをゆっくり歩き出した。
少し早いけれど、荷物を預かってもらおうと、予約している旅館へ脚を向ける。
昼の温泉街には、蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、空気にじんわりとした熱が溶け込んでいた。
道の両脇には土産物屋や甘味処が並び、暖簾が風に揺れるたびに中から涼しい空気がこぼれてくる。
浴衣姿の観光客とすれ違いながら、石畳を踏みしめる音が、自分の歩調を刻んでいくのを感じた。
やがて、緩やかな坂を上りきった先に、木の格子と白壁が落ち着いた雰囲気を漂わせる旅館の玄関が見えてきた。
門前の植え込みには色鮮やかな百日紅が咲き、夏の陽射しに映えている。
(ようやく着いた)
心の中で小さく息をつく。
ところが、チェックインの直前に思いもよらない言葉を耳にした。
「申し訳ありません、お湯の設備が故障してしまって…」
まさかこんなことがあるなんて──旅は予想外がつきものだ。
落ち着いた風情の玄関を前に、思わず肩の力が抜けてしまう。けれど女将さんは、すぐに続けてくれた。
「ご安心ください。近くに親しくしている旅館がございまして、そちらにご案内いたします」
代わりに案内されたのは、通りの奥にあるもう一軒の旅館。
そこまで送ってくれることになった従業員の男性が、私の荷物を軽々と持ち上げてくれる。
「暑い中、すみません」
そう声をかけると、彼はどこか人懐っこい笑みを見せた。
白い半袖シャツに、日に焼けた腕がよく映えている。
私がつい視線を止めると、それに気づいたのか、冗談めかして肩をすくめてみせた。
道すがら、古びた木造の軒や、石畳に伸びる影を指差しながら教えてくれる。
「この道をまっすぐ行くと、小さな足湯があるんですよ。今もちゃんと湯が張られていて、手入れもされています。観光客は少ないから──とはいっても、この町自体に来る人は数えるほどしかいませんから、ほとんど来ないんです。貸し切りみたいに使えますよ」
「そうなんですか」
思わず声がこぼれ、情景が頭に浮かぶ。
私はスマホを取り出し、道先を一枚撮った。
レンズ越しに見えた彼の横顔は、陽射しに滲んでやわらかく見えた。
旅館の玄関で礼を言い、そこで彼と別れた。
それで終わるはずだった──そのときは。



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